自己紹介

こんにちは。階戸 照雄です。
当サイトに訪問いただきありがとうございます。
名前の読みは、『しなと てるお(SHINATO TERUO)』です。

現在は、神奈川県川崎市に在住しております。

以下、私の自己紹介をさせていただきます。

  • 好きな食べ物
  • 好きな音楽
  • 趣味

フランス料理とフランスワイン

 私は、間違いなくグルメではなくグルモン(グルメは美食家、グルモンは大食い)でしたが、フランス勤務中、接待という重要な任務のおかげで、レストランの格付けで有名なミシェラン・ガイドの三ツ星、二ツ星、一ツ星をかなり網羅することができました。本当にどこまで「食」を分かったかは疑問ですが、やはり良いものは実際に食してみるとそれなりに感じてくる所があるのを実感しています。

 私はアルコールを飲むとすぐに顔が赤くなる性質でたくさんは飲めないのですが、やはりワインは好きです。特にコルクを空き、ワインを試飲するときの緊張感は一流のワインであればあるほど高揚するもので、単に「Bon!( 良いね!)」というだけではなく、気のきいたコメントが出来ないかといつも思っていました。幸か不幸か、ワインが悪いために「Ce n’est pas bon! (だめだね!)」といまだ一度も言ったことはなく(そう感じたこともありましたが、一流ソムリエの前では言えませんでした)、一度言ってみたいと思っています。

オペラやクラシック

 いわゆる「通」の方からするとおこがましいかもしれませんが、オペラやクラシック音楽は好きです。イギリスやフランスにいる時はシーズンになると(秋口からですが)、今年の題目は何かと浮き浮きした気分になっていました。ロンドンのコベント・ガーデンやパリのオペラ座はオペラを中心によく行きました。日本に帰ると時間を含めて余裕がないため、なかなか行けずに残念な思いをしています。
 パリのオペラ座に行った回数がやはり一番多いのですが、バスティーユ広場にある新オペラ座が中心でした。旧オペラ座は改装中でもあり、既に一般のオペラは上演していなかったのですが、この旧オペラ座のこけら落としで見たモーツアルトの「Cosi fun tutte」は、眩いくらいの内装の素晴らしさと調和して、今でも忘れられない上演でした。
 クラシックの方では、日頃のコンサートは言うに及ばず、ロン・チボー国際コンクール(隔年で、ピアノとバイオリン部門の大会がある)のような第一級の大会を目の前で見る機会があり、日本人参加者の活躍ぶりもある等(当時は樫本大進さんがバイオリン部門でトップになり、翌日のFigaro誌の音楽部門でモーツアルトの再来かと絶賛されていました)、忘れられない思い出の一つです。

将棋

 最近はほとんど実戦が出来ないため、弱くなっていますが、日本将棋連盟の五段の免状を頂いています。当時の勤務先の顧問が「三手の読み」で有名であった故原田泰夫九段で、原田先生より推薦いただきました。日本将棋連盟発行の将棋世界誌の「六段位認定証」も一応頂いているので、六段を申請すれば頂ける状況にはあります。因みに、アマチュアとしては六段位が最高位になります。
 日本将棋連盟からは公認普及指導員の任命も受けていて、私が判定すれば一般のアマチュアを二段位までは認定できることになります。この制度は1994年からスタートしたもので(当時は、全国で100人程度)、ちょうどフランスに赴任した時であったので、海外における公認普及指導員としては私1人だけでした。フランスではフランス人相手に将棋を教えました。離仏する際、教えていたフランス人の将棋クラブに十数冊の「羽生の頭脳」シリーズなどを寄贈したのも懐かしい思い出です。

幼少期 ~縁台で覚えた将棋~

 生まれは、1955年、奈良市、作家・志賀直哉で有名な高畑の近くです。 一人っ子として育ち、不自由はありませんでしたが、子供心に戦後の貧しさを少しは経験したかと思います。 幼いころの思い出はあまり鮮明ではありませんが、縁台で大人の指す将棋に興味を持ち、はさみ将棋から本将棋(いわゆる将棋)を覚えたのはこの頃です。

小学生 ~父親の死~

 どこにでもいる平々凡々たる子供でした。あえて言えば、大人と将棋をしても「向かうところ敵なし」だったと記憶しています。小学校3年の時、親父が誤診に近い形で手術後亡くなりました。その後はお袋と2人(+母方の祖父・祖母 )、母子家庭となり暮らしていくことになりました。 しかし、親父がいなかったことで寂しく感じたことは一度もなく、亡くなったお袋には今でも大変感謝しています。

中学生 ~大人の世界を垣間見る~

 成績はそこそこでした。が、英語だけはどちらかというと苦手でした。この頃の関心事は、何と言っても将棋で、奈良県の大会に出場し、下のレベルとはいえ優勝することもありました。地元の新聞にも名前が出て、限られた分野ながら、自分が大人の仲間入りをした気分になっていました。しかし、当時、谷川青年(現九段、17世名人)が若き天才と持て囃されていた時代、自分が将棋で身を立てるほど強くないこともよく分かっていました。

高校生 ~大阪万博で世界を知る~

 高校も公立で、入学した際、一念発起して英語を勉強しました。苦手な(と思っていた)英語が学年トップになれたばかりか全国でも上位になり、やればできると自信がつきました。
 また、この夏に大阪万博が開催され、一人でガボン館を訪問しました。館長から色々な話を伺おうと勇んで行ったのですが、ガボンはフランス語圏であり、通訳の方を通じて、私の英語をフランス語に通訳していただき、やっと話が出来ました。この感動から、自分も将来、海外で働いてみたいという希望を持つようになりました。大学は当時自宅からも通えた大阪外国語大学を選び、幸いにも現役で入学することができました。

大学生 ~ディベートとの出会いと初めての海外生活(メキシコ)~

 外大生は当然、3ヶ国語ぐらい外国語はできるはずだと勘違い(?)し、イスパニア語(スペイン語)を専攻しました。大学生活中、ESS(英語研究会)でディベートに没頭し、3年次にはキャプテンとしてディベートの西日本大会でベスト4、全国大会でベスト8の成績を残すことができました。
 4年次になると、国際ロータリー財団奨学生として、メキシコ国立自治大学で1年間、メキシコの現代政治システムを研究しました。メキシコでの経験は本当に素晴らしいものでした。いわゆる先進国ではない国で、若い多感な時に1年間を過ごせたためです。
 メキシコ時代で思い出すことは、大学に通うバスのことです。メキシコのバスはバス停でバスが止まりません。走行しているバスに飛び乗り、飛び降りる業が必要でした。しかもバスはいつも満杯のため、最初の頃の通学はまさに「命がけ」でした。
  そう言えば、大学時代は何か信念があってやっいたわけではないですが、肩まで髪を伸ばしていましたし、メキシコでは口ひげまで生やしていました。